たとえば日常よくみられる実例は、漢方処方における辛夷清肺湯証と小青竜湯証の鑑別である。
(
正確には辛夷清肺湯合猪苓湯や辛夷清肺湯合小陥胸湯と小青竜湯証との鑑別である。)
前者は黄色粘稠な鼻汁や喀痰であり、後者は透明希薄な鼻汁や喀痰ということで、いかにも簡単に見分けが付くようだが、これは常(正則)を述べたまでで、実際には変(変則)があり、かなり奥深いところが漢方世界の微妙なところである。
津液が鼻や肺に停留する暇がなく、肺気が上逆してクシャミによって頻繁に鼻汁が排出されたり、咳嗽によって喀出されるような場合は、熱盛の状況であっても津液が熱で煮詰められ濃縮される暇がないので、水様性の希薄透明な喀痰や鼻汁がみられることになる。
これとは逆に、津液が体内に停留する時間が長ければ長いほど、寒飲内停の小青竜湯証であっても、津液が濃縮されて粘稠で濃厚な喀痰や鼻汁が出ることさえあり得るということである。
このような変則を真に理解し体得するには、漢方および漢方薬の付け焼刃の学習では、なかなか身につかない。
と言っても、現実によくまぎらわしいのは実際には辛夷清肺湯証であるのに、希薄透明な鼻汁が出ている状況で、いかにも小青竜湯証に見えて、実際は辛夷清肺湯証であったということは、意外に多いものである。
ところが、その逆に濃い鼻汁で粘りが強く、いかにも辛夷清肺湯証のようで、実際は小青竜湯証だったという事例に遭遇したことは一度もなく、昨今、まともな小青竜湯証に遭遇することは筆者自身の仕事上では稀なことである。
以上の理論的根拠として、陳潮祖先生の『中医病機治法学』の肺臓自病における「肺寒停飲の病機に対する温肺滌飲法」で論じられておられる下記の部分が参考価値が高い。
以下、拙訳で参考に供する。
●肺寒停飲と痰熱壅肺の常と変
痰熱壅肺と肺寒停飲の証候は、八綱弁証における寒熱の典型的な症候のほか、痰の性質が透明希薄か粘稠であるかも寒熱弁証の根拠となる。粘稠な場合は「痰」であり、透明希薄であれば「飲」である。痰の性質が濃厚粘稠であるのは邪鬱化熱により津液が煎熬された場合が多く、透明希薄な飲邪となるのは陽気が不足しているために津液を濃縮する力がないからである。
但し、以上の病理機序は常〔正則〕を述べたまでで、変〔変則〕については含まれてない。実際の臨床においては、津液が肺に停留する暇なく肺気が上逆して喀出されるような場合、熱盛の状況であっても津液が煎熬・濃縮される暇がないので、水様性の喀痰がみられることになる。これとは逆に、津液が体内に停留する期間が長ければ、寒飲内停であっても濃縮されて粘稠・濃厚な喀痰がみられることもある。それゆえ、色脉合参を十分に行って微妙な所を繰返し推敲し、「常」を知り「変」まで通暁してはじめて正確な寒熱弁証を行うことができるのである。
某医療用メーカーは、本来白朮であるべきところを、すべて蒼朮に入れ替えて漢方エキス製剤を製造しているから目も当てられない。
神農本草経の時代には蒼朮と白朮の区別はないが、《名医別録》で初めて赤朮と白朮に分けられ、区別されるようになった。赤朮すなわち蒼朮である。
蒼朮の名は宋代に至って初めて《政和本草》で用いられるようになる。
注意が必要なメーカー間における製剤原料の大きな違いからほんの一部だけ引用。
ヒゲジジイの薬局では使用しない医療用だから、ほとんど関心がなかったのだが、先日、五苓散に蒼朮が使用されている問題を論じて以後、ちょっと気になって調査したところ、あらゆる方剤の白朮であるべきところが、すべてが蒼朮に置き換えられて製造されているという信じ難き事実っ!
日本流の杜撰さがここにあり、補虚の白朮を去邪の蒼朮に置き換えたら、六君子湯も補中益気湯も、苓桂朮甘湯など、それら数十処方以上ある方剤類が悉く、本来の方意を微妙に損なうことになる事実を知る医療関係者がどれだけいるのだろうかっ?
こういう逆鱗に触れることをズバリ指摘できるのは、老い先短いヒゲジジイ以外には出来ないのだろうかっ?
上述の白朮と蒼朮の問題は、すべて学問的にも臨床的にも中医学的には当然のことで、常識中の常識なのである。
日本の漢方界は漢方処方に配合する生薬に関して、どうしようもなくデリカシーに欠け、杜撰なのである。
その他の重要参考文献:白朮を蒼朮で代用する日本漢方の杜撰
最近知ったことで、日本に流通する五苓散エキス製剤の中には、ほんらい白朮(ビャクジュツ)を使用すべきところを蒼朮(ソウジュツ)で代用?している製剤が、かなり広く流通していることに驚いている。
他のブログでもこの問題を論じているので、
五苓散の薬味に蒼朮(ソウジュツ)を用いるのは間違いであるより一部を以下に引用する。
言うもはばかられるが、五苓散製剤の原料に蒼朮(ソウジュツ)を使用している信じられない漢方製剤がこの日本に堂々と存在し、広く流通しているのだから驚愕ものである。
その製造元の漢方と漢方薬に対する学識レベルを疑わざるを得ない。
五苓散の薬味は、猪苓・沢瀉・茯苓・白朮・桂枝であると原典の傷寒論に記載されている。
なにゆえ白朮(ビャクジュツ)のかわりに蒼朮(ソウジュツ)なのか?
白朮と蒼朮は、中薬学上の薬効は明かに違いがある。類似した点も多々あるが、明かに異なる部分もある。
脾虚脾湿に適応する白朮と、湿邪の実証に適応する蒼朮である。燥湿健脾を特長とする白朮と、去風除湿を特長とする蒼朮である。
白朮と蒼朮の最も大きな違いは、白朮は固表止汗して黄耆(オウギ)がないときには一定の代用になるほどだが、蒼朮は逆に散寒解表して発汗作用がある。
たとえば玉屏風散(ギョクヘイフウサン)は黄耆・白朮・防風の三味で構成されるが、この白朮を蒼朮で代用することがあっては絶対にならない。蒼朮に入れえられてしまうと、玉屏風散の立方の主旨である表衛不固の治療方剤(益気固表止汗)としては完全に失格してしまう。
同様に五苓散の立方主旨から考えても、明かに白朮でなければならないのである。
もともと日本漢方(漢方医学)では白朮や蒼朮の原料に対する考えかたが非常にルーズであったが、その悪しき伝統が平成の御世にまで受け継がれているらしい。
この国の漢方レベルは未だにこの程度のものであるかっ?
白朮がないときの代用として古立蒼朮(コダチソウジュツ)を止むを得ず使用するというのなら話はわかるが・・・しかしながら、白朮の流通が途絶えたという話は聞いたことがない。
実は、蒼朮を用いた五苓散エキス製剤が意外に広く日本で流通している事実を先ほど偶然知ったばかりなのである。
実際には本ブログの
五苓散(1)で、五苓散の薬味の問題、白朮と蒼朮、桂枝と肉桂の問題を少しだけ指摘しているものの、その詳細を述べることがなかったのだが、蒼朮を用いた五苓散の流通が意外に多いことに驚いて詳細を記す気になった次第である。
六味丸に知母(ちも)と黄柏(おうばく)を加えたものが瀉火補腎丸(知柏地黄丸)である。
近年爆発的にこの方剤が適応する人々が増加中である。
六味丸証間違いなし、と思っていた人でも、その半数以上が実際には瀉火補腎丸こそ適切であったということがあまりに増えているので驚いている。
そもそもこの寒い冬が到来しても、自宅に帰ると床暖房でもないのに、靴下を脱いで裸足でいるような人達が意外に多いのである。靴下を履いたままにしていると汗ばんだり、火照ったりして気持ちが悪いという。
わざわざ冷たい廊下を歩いて気持ちが良いとさえ言う人さえいる。
これらの人達の多くが知柏地黄丸証なのである。アトピー性皮膚炎や高血圧など、様々な領域で応用可能だが、本方剤単独使用で済むことはすくないが、少なくとも上記のような裸足で平気な野蛮人?たちは知柏地黄丸証であることが多いということを覚えていて損はないだろう。
製剤としてはイスクラ製の瀉火補腎丸(しゃかほじんがん)をもっとも信頼している製品である。
【関連ブログ】
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寒い真冬に裸足で過ごす人々が増加中!
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子供の裸足生活と大人の裸足生活の意味は微妙に異なる
托裏消毒飲(たくりしょうどくいん)については、既に
托裏消毒飲(たくりしょうどくいん) で述べているが、その続編である。
もともと痔漏によく奏功して重宝していたが、偉効に驚かされたのは二十年以上も前に敗血症の不安を抱える肺膿瘍の男性を本方の煎じ薬で根治させた経験である。
昨今は煎じ薬を使用せず、前回にも記したとおり、エキス製剤を数種類組み合わせることで、本来の托裏消毒飲を上回る効果を得ている。
ところで、以前にも少しだけ触れて
ガンや悪性腫瘍が進行して皮膚表面に露出したものが爛れて腐臭を発するものにも、根治は無理にしてもよく奏功する。
とだけ書いていた部分こそ、実は本当の利用価値があるように思われる。
とてもデリケートな段階で使用する場合が多く、根治が望めると言うわけではないので、強調して書く気にはなれなかったが、末期に近い段階で使用しても、シバシバ患部が改善し、体力や気力、食欲が増して、明らかに生活の質が向上する例を多く経験しているので、再記しておきたいと思ったのである。
現在も上記のような状況で、複数の方が
他の方剤とともに利用され、優れた効果を発揮している。
・玉屏風散(ぎょくへいふうさん)のエキス製剤
・荊防敗毒散(けいぼうはいどくさん)のエキス製剤(
金銀花や
人参が必須!)
・白花蛇舌草(びゃっかじゃぜつそう)のエキス
この組み合わせで、明らかに本物の托裏消毒飲の効能を上回るようである。